最近夫と、自分の中にあるネガティブな感情を手放すこと、スピリチュアルで言う『内観トレーニング』について議論になった。
夫の言い分はこうだ。
夫「手放す手放すってさ、なんだか知らないけど『手放さなきゃならない』みたいなこと言われるともぅその時点で胡散臭いんだよ。そもそもだよ、なんで手放さなきゃならないんだよ?」
補足だが、夫はスピリチュアルが大嫌いな人間である。
私「ほうほう。一理ありますな。じゃあ、ネガティブな感情が自分の中にあったとしても、なにもわざわざ手放す必要は無い!と、アンタはそうお思いってことですかい??」
夫「そう。」
…そもそも『内観』とは何なのか?調べてみると、このようなことが書かれている。
・「内観」とは、心理学で、自分の意識やその状態をみずから観察すること。内省。自己観察。
・自己観察してみた結果、自分の中に存在するネガティブな感情を「手放す」ことがスピリチュアルで言われている「内観トレーニング」。「内観ワーク」とも言う
夫との会話に話を戻そう。
夫はどうやら、『なぜ、自分の感情をわざわざ手放さなければならないの?』と感じているらしい。
この会話の中で最も重要なことは、夫の素朴なこの疑問であり、それに対し私なりの考えを答えることである。誰がどう見ても明らかだろう。
しかしながら少し前までの私は、そのような当たり前の会話が出来なかった。夫の素朴な疑問に対し、素直に答えられなかったのだ。
以前の私なら夫からの問いかけにこう答えていただろう。
「はぁー?内観がなんの意味も無いと思ってんの?言っとくけど、これは私だけじゃなくてみんなが重要って言ってることなんですけど!あんた、スピリチュアル嫌いだからちゃんと知らないじゃん!なのにそうやって人をバカにした言い方してさ。」
…夫と議論になりかけると何故かいつも、私の心の奥底に眠っている『被害妄想』がメキメキと覚醒し、大暴れしてしまうのだ。
不思議なことに、この被害妄想は夫にしか発動しない。
そして被害妄想が暴れ出した私に『どうして手放す必要があるの?』という夫からの問いかけは、申し訳ないが少しも届かないのである。
代わりに夫の『胡散臭い!(拒否)』とか『手放す必要なんて無い!(否定)』という、私の心をネガティブに刺激してくる言葉だけを、全力で受け取ってしまう。
すると私は瞬間的に、『バカにされている』とか『お前は間違っていると否定されている』というネガティブな被害妄想に囚われる。
脳みそがネガティブな感情の処理に追われて、現実の会話に追いつけないイメージである。
自分でも驚愕するが、ここまでの一連の流れは歩く歩道並みに超絶スムーズで、一瞬で被害妄想まで辿り着く。
被害妄想が脳みそいっぱいに膨れ上がった私は、相手の言葉を正しく処理できず感情的になり、
『私は間違ってない!オメェーがわかってないんだろ!?』と、
自分の意見を正当化するような返事ばかりを繰り返してしまうことになる。
同時に、『相手を言い負かしたい!自分の意見が絶対正しい!』という強い自己顕示欲まで目覚め出し、夫の素朴な疑問に対しての答えはかなり『ズレて』しまう。
自分が経験し、心から信じている事柄であればあるほど、自己顕示欲は強固なものとなる。
こうして最終的には話が噛み合わず、お互いが「もういい。」と議論を諦めてしまうことが多発していたのだ。
この結果は実に虚しいものである。
しかし何を隠そう、今の私自身は、昼間のパパ並にちょっと違う。
ある時から私は『内観トレーニング』を行ってきたからだ。
内観トレーニングを続けていると、少しづつ、自分の外側に向いた『感情』(被害妄想や自己顕示欲)を客観視できるようになった。
更に、一旦、相手の言葉を否定せずに受け入れることもできるようになってきたのである。
そうなると、驚くほどに脳みそは正しく平和的に、調和に向かって機能してくれるのだ。「脳みそ」とは私にとって、心から信頼すべき頼もしい相棒だ。
とはいえ、少し前までの私は、てんでお話にならないトチ狂いレベルの被害妄想女だった。
あまり公にしたくはないのが本音だが、こうなるまでの歩みを振り返ってみたいと思う。
数年前、私は、アセンションしたい!という謎に爆誕した気持ちを持って過ごしていたものの、実際にネガティブな感情を手放す『内観ワーク』に関しては、本腰を入れて取り組めていない期間があった。
スピリチュアルに関しての知識を増やすことに夢中だったのもあるが、『手放す』ことの重要性も、そのやり方もバッチリ予習できていたのに、とにかく『自分の内側を見つめる』ということに、いまいちピンときていなかったのだ。
ピンときていないクセに「簡単そうだし、やる気になればすぐに出来そう。」なんて呑気に舐め腐ったことを思っていた。
しかし、いつものことなのだが光の速さでこの舐め腐った態度に鉄槌が下ったのである。
ある時、まるで高次の存在のような寛大な心の持ち主である夫と、大喧嘩が勃発した。
しかも、同じような内容で、短期間に三回連続でだ!!
少し脱線するが、私の夫はとても忍耐強く、心根は優しく、超絶論理的思考の持ち主でありながらその本質はとても愛が深い。
私がうつ病の期間は、ずっと支えてくれた。
うつ病を乗り越え、悲願叶いやっと勤め始めたパート先の人間関係が嫌で嫌でめそめそ泣いている私を見て
「そんなに嫌なら、辞めてこいー!!今すぐ!!(╬▔皿▔)╯」と怒鳴って喝を入れてくれた。
パートを辞めてからいつまで経っても働く気になれなかった私に、文句を言ってきたことなど一度もない。
しかし、働けない自分の存在が夫のお荷物に思えて罪悪感が溢れ、勝手に落ち込む私に対し「今はお金に困ってないんだし、別に働かなくても良いんじゃない。」と、言い方は超絶ドライだが、ずっと変わらず言ってくれていた。
人によっては、この超絶ドライな言い方は冷たく、まるで突き放されてしまったように感じるかもしれないが、私自身は夫の言葉に何度も救われてきたのだ。
まるで守護霊のように中立な心の持ち主である夫は常に尊敬の対象である。
しかし!!話を戻すが、たった十日間くらいの期間に合計三回も、ブッチギレ大喧嘩が勃発した。
言っておくが私たち夫婦は、普段はお互いに「平和が一番」と心底思って生きている者同士である。
こんなことはそれまで一度もなく、これはもはや事件であった。
しかも、何より問題だったのは、全ての事件において、もれなく、私の言動が守護霊夫の逆鱗に触れ、忍耐強い夫をブチ切れさせるという構図だったことである…。
守護霊夫が、血管ブチ切れそうな勢いで目の前で、私に怒っている…。
私は『やばい…。これはなんか、マジでヤバいぞ…!!((((;゚Д゚))))』と、危機感を募らせていた。
ブチ切れ事件一発目の時は、引くに引けず、「自分は悪くない!悪いのはオメェーだろ!!」のスタンスで何とか押し切ろうとしたが、それが火に油を注ぐ結果となり、かなり激しい言い争いに発展した。
しかし結局、最後には私自ら謝罪することにした。
守護霊夫の言い分をよく聞いてみて冷静になればなるほど、どう考えても私が悪かったかも。と心から思ったのである。
心から素直に謝罪したにも関わらず、守護霊夫はひと晩口をきいてくれなかった。
二発目も、同じようなことが起きた。冷静になってみると、どう考えても、私が悪かったな…。と思い、また素直に謝罪した。
守護霊夫はまたもやひと晩、口をきいてくれなかった。
私の心の中は『またやっちゃったなぁ…。どうしちゃったんだろ??私??(´・ω・`)?』
と、『なぜこうなってしまうのか?』小さな疑問が湧き始めていたが、まだ余裕ぶっこいて自分の言動を振り返りもせず、むしろ守護霊夫にだって責任があるとさえ思っていた。
そして遂に、三発目の勃発。もう、説明すら必要無いだろう。
この時は流石に自分が情けなくなり、大泣きして謝罪した。
私「私が悪かったですぅーううぅぅぅぅ………ヴォエっ。でも、どうしてこうなってしまうのか、自分でもわからないんですぅー………うぅぅっ…。最近ずっと同じこと繰り返して…ご、ご、ごめんなさいぃー……。」
守護霊夫は呆れかえっていた。そして冷静に、私との会話を感情抜きで客観的に振り返り始めたのだ。
夫が振り返り始めた瞬間、「また責められるのか…」と思わず身構えたが、これまで三度も自分が原因で喧嘩になった現実を何とか受け入れ、私はただただ夫の話を黙って聞いていた。
すると、すぐに意外なものが見えてきた。
それは、この喧嘩の原因である、私自身の無駄なプライドの高さや自己顕示欲・被害妄想という、ネガティブな感情だった。
私は、自分自身が依存心と執着心だらけな上、自己顕示爆発タイプのヘビー級に重たい女だったという事実に心底絶望し、精神的にかなり追い込まれていった…。
『え!?毎回全部、完っ全に、私の強情っ張りのせいじゃん。そもそも、人の話しを聞けて無いし…。
お門違いな返事しかしてないし…。なのに自分の意見を理解してくれない!とかヒスってるし…。
どう考えても、私がお話にならないんじゃん!!
しかも、もう既に同じことを三回も繰り返してしまった…!!学習能力無さ過ぎ!ビビる!!
なんで!?どうして!?最悪だぁー…!!!(┬┬﹏┬┬)』
…ジョルノ・ジョバーナが相手だったら、私なんか二度目の段階で既に見捨てられて死んでいることだろう。
ジョルノは同じことを二度説明させられただけで「そいつはバカだ。」と判断する男…。
私はジョルノが大好きなのに…。
『二度同じことを言わせないで下さいよ…一度でいいことを二度言わなきゃあいけないってのは…そいつが頭が悪いってことだからです。』
『何度も言わせるってことは無駄なんだ…。無駄だから嫌いなんだ…無駄無駄…』(ジョルノの名台詞)
かつて私は、ジョルノの考えに超絶共感して「無駄なことはしたくありません。ಠ▃ಠ」の
クッソ生意気スタンスで仕事をしていたのに、今となっては同じことを三度も繰り返し、守護霊夫をブチ切れさせてしまうという情けないこのありさま…。
こうして、守護霊夫にもジョルノにも「頭が悪い」と思われているに違いない!悔しい!恥ずかしいー!と、勝手に妄想が膨れ上がり、絶望の自己嫌悪と被害妄想に苦しむ日々が始まったのだ。
喧嘩のきっかけはこの世の何よりもしょうもないことだったが、このことが原因で私は生まれて初めて心の底から自己嫌悪の渦にのみ込まれていた。
これを言うと驚かれるが、この時まで、私は自己嫌悪で落ち込むという経験をしたことが無かったのだ。
どうしてなのかはよくわからない。ある一面でのみ尋常ではないポジティブ思考であるという私の特性が作用していたのかもしれない。
過去の恥ずかしい出来事も自分の未熟さ故に苦しんだ経験も、本当の『自己嫌悪』には結びつかなかった。
しかし、この時ばかりは相当悩み、苦しんだ。初めての経験だった。
『私ってヤツぁ、なんでこんなにダメなんだろうか…。こんなにバカだったとは…いや、本物のバカだ…。
一体、どう受け答えするのが正解だったのだろうか…。
それに、もし、また同じことで夫を怒らせてしまったらどうしよう…。怖い…!恐ろしい…!
とにかくこの依存心だけでも、どうにかしなければ…!!((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル』
後悔し続け、とにかくあまりの自分の学習能力の無さに絶望し、自分のことが嫌になり、自信が無くなり、悲しくて情けなくて恥ずかしくて、おいおいと泣き続けたのだった。
それからかれこれ三日間、人生初にして最大の自己嫌悪に悩まされた。
この間、どうしたらこの負のループから抜け出せるのか?なぜこんな気持ちになるのか?あらゆることをひたすら考えていた。
そしてドロッドロのヘドラのような状態で考え続けて四日目、遂に、気がついたのである。
「あれ?もしかして…この苦しい気持ちこそ、『内観トレーニング』で手放すべきネガティブな感情なんじゃないの…?どうなんだろう…でも、もしかしたら…!」
私は期待を抱え、内観や内観ワークに関して過去に書き溜めたノートを見返してみると、そこにはこのように書かれていた。
・自分の中の「ネガティブ」を許し、手放す。何度でも何度でも、根気強く。
・統合に近づく程、根深かった「ネガティブ」が顔を出してくる。その度に目を向けるべきは「外側」ではなく「内側」。そして根気強く手放す。
・「ネガティブ」を受け入れ・許し・手放す。単純に、これだけでいい。
これを読み返した時、私の心に光が射した気がした。
そして『内観ワーク』をやってみよう!と、決意したのだった。
さて、こうして内観ワークを日々欠かさず実行してきた私は、おかげさまで最近では夫と楽しく議論ができるようになってきた。
あの被害妄想爆発女は何処へ?と言っても過言ではない状態だろう。
内観ワークのやり方云々については、想念の世界に全身突っ込んで行くような内容になってしまうため、興味があるならば各々で調べていただければと思う。
そして、被害妄想爆発女の肩書きを自ら脱ぎ捨てた現在の私と、特に何も変化の無い超絶冷静夫による冒頭の会話の続きが、こちらである👇
夫「手放す手放すってさ、なんだか知らないけど『手放さなきゃならない』みたいなこと言われるともぅその時点で胡散臭いんだよ。そもそもだよ、なんで手放さなきゃならないんだよ?」
私「ほうほう!一理ありますな。じゃあ、ネガティブな感情が自分の中にあったとしても、なにもわざわざ手放す必要は無い!と、アンタはそうお思いってことですかい??」
夫「そう。」
私「えー!なんでなんで、なんでそう思うの!?
だってさ、ネガティブな感情に精神が支配されると死ぬほど辛いじゃん!?
そんな時はどうするのさ??
思い出しただけで死ぬほど恥ずかしい記憶の感情とかさ、どうしても許せない相手への恨みとかさ、評価されたいみたいな執着心とか自己顕示欲とかさ、誰でも色々あるでしょ?
内観トレーニングってのは、そんな風に自分の心が重たくなってしまう要因の記憶の中や、今現在、心にある『ネガティブな感情』を深掘りして、自分には必要無いなと思ったらそれだけを『手放す』んだよ!」
私は興奮気味に捲し立てた。
しかし同時にこの時、だんだんとスピ嫌いの夫の目が翳り出し、言い終わる時点ではまるで死んだ魚の目のようになってしまっていることに気がついた。
死んだ魚になるくらい、そんなにもこの会話が苦痛なのだろうか?と私は無駄な繊細さで察したが、それにしたって真剣に話す人間に対してはあまりに無礼な目つきである。
でもまだ腐った魚の目にまでにはなっていない。かろうじて新鮮だ。
スピ嫌い夫がここまで本音で向き合い話し合ってくれるこの機会を絶対に逃したくなかったため、私は夫が死んだ魚の目になっていようが構わずこう続けた。
私「内観ってさ、『起きた出来事』も、『それに関わった他者』も、実は全く関係なくてさ、いかに自分自身の心と自分が向き合うか。
っていうだけのことなんだよ。そこが一番難しいのだけれど。意味わかる??」
夫「全く。意味がわからん。(死魚目)」
私「だよね。
例えば、私がいじめられていた過去があったとして、自分を苦しめたいじめっこへの恨みがどうしても消えません。って現実があるとするじゃん。
この場合、いじめられたという出来事が原因で、いじめっこへの”恨み”を今も持っているんだよ。
内観ってのは、この結果の部分である『恨み』という感情だけに着目して、観察するわけ。
で、自分は『恨み』を今現在持っている!って自覚したら、その『恨み』という感情だけを、ただ単に『手放す』ってことなの。
この『手放す』までの一連が『内観ワーク』なの。
人はいじめられてた過去や、いじめっこに執着しがちなんたけど、内観において大事なのはそこじゃ無いのよ。」
夫「………。(死魚目)」
私「だから誰にも迷惑かけないし、全部、自分自身の内側の問題。過去の出来事や他人のことは一切関係ないんだよ。
どうしても納得いかなくて『全部あいつのせいだ』としか思えなかったとしても、その感情は『恨み』なだけ。
その『恨み』だけを客観視して、捉えるの。自分自身が持っているものだからね。
自分が生み出した自分の持ち物を、他人にどうにか処理してもらおうとしたって、無理じゃん?多分。」
夫「そんで、じゃあそれをやったらどうなるわけ?」
私「私の場合はね、いざ手放してみると、うぅーん…。心が軽くなって、自分も他人も同じなんだなと思えたんだよ。って、語彙力無さすぎる!申し訳ない!
夫にとっては心底どうでもいいことかもしれないけどさ、私は素晴らしいことだと思うんだよね。
だってさ、考えてみてよ!せっかく前向きに手放してみようって決意したのにさ、もし、
『その恨みは、いじめっこ本人からの謝罪が無い限り、手放せません!永遠に!』
なんて言われたら、マジで萎えると思わない!?
他人は関係なくて、全部自分一人でできるから良いんだよ!!それだけで心が軽くなって、不安や被害妄想が減るんだから、試しにやってみたらいいんだよー!!」
夫「…でもさ、そのネガティブな感情とやらを、『受け入れる』ことの方が重要だと思う。手放して、無くなって、それであぁ良かったって、なんか、変じゃん!変なんだよ!!
そもそも、完全に手放せるわけがない。多分、『手放す』必要なんて無いんだよ!!
そんなの、誰にでも絶対に在るんだから!むしろ『全部受け入れろ!!』って思う。」
私「そっかー!!確かに、一度手放したからって完全に消える訳ではないんだよね。これがまた…。
でもそれ聞いて思ったけどさ、夫は、普段から内観トレーニングを応用した更に高度なテクニックを駆使して生きてるのかもしれない!もしかしたら…!
私はさ、手放すことは、実は『受け入れる』ことと同じようなことだと今は思ってるんだよ!究極に突き詰めるとね。
でもこの考えに至るまでには相当な時間がかかったよ…。
それに言葉通りに受け止めてしまうと、間違った解釈になりかねない。とも思う…。
言葉にすると『全てを在りのまま受け入れれば良い』って、あまりに簡単すぎてしまうのよ。
実際やってみたらわかると思うけど、言葉で理解できても、魂というか、心の奥底では、なかなか実感できないんだよ。簡単じゃないんだよ。
なんでかって言うと、人間には『感情』があるからで、ほとんどの場合、感情に従って生きているから。
それにこの世界は、自分の内側ではなくて、他人という外側に全神経が向くようになっているからだと思うんだよね。
だけど、実際に重要なのは自分の内側なんだよ!どこまで行っても、内側しか重要じゃないんだよ!
そんで自分の内側とやっと向き合った時、『ありのまま全て受け入れる』ことが、最も難しいんだよ。私はそうだった!」
夫「なんじゃ、そりゃ。ならなんで、手放すことは受け入れることと同じようなことだって言ってる人がいないわけ??
見たくも無いYouTubeも見たけどさ、偉そうな人はそんなこと一言も言って無かったよ。」
私「あぁー…。人に教えるためには大先生になりきらなきゃならないんじゃないの。知らんけど。
発信の目的が『稼ぐ』ことだったりした場合、多少わかりやすく言い切らなきゃいけないみたいな側面もあるんだろうと勝手に思っているよ私は。
それにどの偉そうな人も、本質は間違ったこと言ってない気がするよ。
元々は誰の教えなのか知らないけど、その大枠は割としっかりしてるもんだなと度々思うんだよね。」
夫「でもさ、じゃあその人たちも、元々は誰かからどっかから聞いたことを発信してるわけでしょ。
だったら、『手放すことが重要なんです。だからこれをして下さい。』って、断言するのはあまりにおかしいと思う。
こうすると良いと言われていることを自分もやってみた結果、こう感じました。とか、自分の経験上こんなことが起こって、それに対してはこう対処できました。とか、
当たり前のことを正確な言葉で伝えてる人が少ない気がする。そもそも興味無いからあまり見てないけど。
そんなの人によって体験も違うし、感じ方も違うのに、『こうするんです!』って断言されてもね。
その本質を自分の言葉で説明できる人ってどれだけいるの?って思う。だから、胡散臭くてたまらないよね。」
私「そっか。少なからず私が好きで観てる数人は、確かではないことについて断言しないかな。
これは前に夫から指摘されて激論になったから今思えることなんだけど、私自身は、発信するからには伝え方に気をつけないといけないんだな。って、肝に銘じているよ。
そもそもスピリチュアルって決まりも正解も無くて、夫の言うように千差万別なんだと思う。人それぞれの現実は、個々に全く違うはずだよね。
それなのに、自分にとっての真実を、もしかしたらそうじゃないかもしれない他者に『こうなんです。こうじゃなきゃならないんです。これはダメなんです!こうあるべきなんです!』って断言してるのを聞くと、残念だよね。
人によっては『この感覚がわかる方は、○○です』とか『私のところに来る方々はレベルが高い』とか平気で断言してるからね。
それを観てる人は、もしかしたら嬉しく感じているのかもしれない。自分は特別なんだって思えるから。
でも私の場合は性格が悪すぎるからなのか、なんじゃそりゃ。って呆れるよ。」
夫「それに関してだけは、本当にそうかもね。」
私「私たちは性格が悪いからね。
『過去の経験から、私は○○だと思います。』って言ってもらった方が聞く気になるけれど、実はその伝え方が重要だと理解してる人は本当に少ないのかもしれないね。
スピリチュアルって無限に自由なもんだからさ、とにかく、ちょっと油断したら大先生になりがち!ってことなんだと思うよ!
大先生が世の中多すぎなんだけど、別にそれでもいいけどね!!私はなりたくないから、気をつけるだけだよねー!!
だってさ、放っといたら誰よりも大先生になっちゃう!私なんて!!誰にも、何っにも期待されてないのに!!
キャハハハハー!!ヾ(≧▽≦*)o」
夫「本当に別にどうでもいい。けどさ、どうしても胡散臭いってだけ。」
私「まぁ、その考えも理解できます。今となっては。
それにしてもさっきの話だけどさ、『全部を在りのまま受け入れる』ことが出来たら、手放すのも手っ取り早いと思うんだよねー…。
でもそれが簡単には出来ないから、みんな自分と向き合うのが苦しくて辛い修行みたいに思っちゃうわけなんだよなぁ……。」
夫「…ワタクシはずっとそうやって生きてます。けど?(自慢気)」
私「…あんた、すごいね。その考えを発端にして、それこそ大先生か教祖様にでもなった方が良いんじゃないの?
でも誰よりも何よりも、胡散臭いけどねー!!キャハハハー!!ヾ(≧▽≦*)o」
そもそも、スピリチュアル嫌いの夫に『内観』とか『手放す』ことの本質を説明するのはとても難しい。お互いにとって非っ常~に面倒で根気のいる作業である。
夫は、私のスピ話を聞いている間はいつも死んだ魚の目をしている。まるで生気が無いのだ!真剣に話そうとしている私に対し、非常に無礼な態度である。
夫の死んだ目を見て私は「あぁ、もう聞いていられないんだな。」と察し(開始45秒)、言いたいことの1/3も伝えられないまま話を終えることが多々あるのだ。
その度に私は心の友である鍼灸院の先生から教わった『1/3の純情な感情』の歌詞を思い出すのだ。
「胡散臭い!」と豪語する前に、私の話を聞いていられないのであれば自ら「手放す」ことの本質を理解してから言ってくれても良いのでは!?
などと思う瞬間は、今でもあったりする。
しかしそれでも、議論にすらならなかった過去に比べると、議論できること自体が心から嬉しくて楽しいのだ。
そして、このように現実が変化したのは、ただ私が私自身と向き合った結果であり、夫は特に何も変わっていないという事実がまた、とても不思議な感覚なのである。
(過去の体験の辛さや壮絶さのことは一旦置いて)
生きてる人はみな、過去の体験や状況が個々に全く違うものというだけで、『抱えてるものの本質』は誰もが同じなのだろう。
そして、いまの私が思う『内観』とは
”人間なら誰もが日々思い悩む出来事そのものを客観的に見つめ、心の中を整理整頓すること”
なのではないかと解釈している。
自分自身が抱える悩みや苦しみを客観的に見つめて、より楽に、生きやすい自分になるための自己内省。
なのでつまりは、スピリチュアルが胡散臭いとか、好きとか嫌い、なんてことは全然関係無いのだ。
『内観』なんて生きてりゃ誰でもやってることなのだ。スピリチュアル大嫌い夫がそうなのだから。
内観しながら、みんな生きてるんじゃん。
おしまい

ずっと書いてみたかった内観についての記事を、やっと書くことができました。きっかけは同い年の友人との会話でした。心から感謝しています。
これからも共に、頑張って暮らして行きましょう。
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